2014年 09月 01日
saba家の夏休み2014=ベルリンの壁= |
ベルリンに行ったら絶対に訪れてみたかった、ベルリンの壁の跡地。
ベルリンの壁について、歴史の教科書でしか知らない人もいると思うので、チラッとご説明。

第二次世界大戦後、敗戦国であるドイツは4つに分割された。
アメリカ、イギリス、フランスがドイツの西側および南側を占領し(西ドイツ)、東側はソ連が占領していた(東ドイツ)。

首都ベルリンは東ドイツに位置していて、ソ連の占領下であったけど、ベルリンだけはこれら4カ国によって分割され、西ベルリンは西側4カ国に、東ベルリンはソ連の占領されていた。
戦後西ドイツは経済的に発展し、仕事も豊富にあった。
52年までは、東ベルリンと、隣接する西側3カ国との国境を超えることは容易であった。このためベルリンは、職と自由を求める人達が東ドイツ側から西ドイツ側へ「亡命」する小窓となっていた。
1950年に187,000人、 1951年に165,000人、 1952年に182,000人、 1953年には331,000人が移住した。1961年までには東ドイツの人口の20%が西側に亡命していた。
東ドイツから西側へ移住する人間を減らす目的で57年、東ドイツにパスポート制度が導入された。旅行は許可制で、西側諸国への出国は認められていなかった。
皮肉なことに、これを機に東ドイツの住民は以前にも増して仕事と自由を求めて西側に移住し始めた。
若くて教養のある人たちー医者・弁護士・エンジニア・教師やスキルを持った人たちが西側に移住してしまい、慌てた東側ではその流れを止めるために1961年8月、東西ベルリン間の国境を完全に閉鎖、一晩のうちに東西の行き来が不可能になった。仕事で東西ベルリンを往復していた人、家族や友人に会いに行っていた人たちなど、いきなり元の住処に戻れなくなってしまった。
東ドイツ軍は初め、有刺鉄線やフェンスを西ベルリンの周囲にぐるりとめぐらせた。そこに壁を建設する間、兵隊に見張りをさせて、越境を試みる人に発砲した。62年、第1の壁と平行に、第2の壁が建設された。2つの壁の間にある建物は壊され、更地になった。逃亡者の足跡を見つけやすくするため砂利が敷かれていた。さらにはどの監視者が勤めを怠っていたか、将校にわかるようになっていた。ここは「デスストリップ」と呼ばれ、国境を越えようとする人は監視塔で見張る東ドイツ軍によって容赦なく射殺された。
89年11月に東西ドイツの国境が開かれるまで、壁は28年の間、国を分断していた。




ベルリン中央部にあるイーストサイドギャラリーには、世界各地のアーティスト達が描いた絵が100点ちょっと並んでいる。
ベルリンを東西に分裂していた壁が89年に崩壊した後、それまでは触ることも許されなかった壁に世界中のアーティスト達が、希望やよりよい将来を願って絵を描いたもの。
残念なことに、落書きがひどく、ペンキもはがれ、壁も崩れてきて、保存状態はよくない。
2013年、この地域を再開発するデベロパーによって壁の一部が取り壊された。
再開発の必要性はわかるけど、個人的にはこの壁は残しておいて欲しい。
目に見えなくなれば、いずれ過去に起こった悲劇の記憶も薄れていくと思うから。

ちなみに、ベルリンの街はグラフィティに溢れてる。アマチュアによるものやったり、名前の知れたアーティストによるものやったり。ベルリンにある数々のグラフィティを見て&自分でもグラフィティに挑戦するツアーがあってんけど、残念ながら満席で参加できず・・・。
ベルリンの壁について、歴史の教科書でしか知らない人もいると思うので、チラッとご説明。

第二次世界大戦後、敗戦国であるドイツは4つに分割された。
アメリカ、イギリス、フランスがドイツの西側および南側を占領し(西ドイツ)、東側はソ連が占領していた(東ドイツ)。

首都ベルリンは東ドイツに位置していて、ソ連の占領下であったけど、ベルリンだけはこれら4カ国によって分割され、西ベルリンは西側4カ国に、東ベルリンはソ連の占領されていた。
戦後西ドイツは経済的に発展し、仕事も豊富にあった。
52年までは、東ベルリンと、隣接する西側3カ国との国境を超えることは容易であった。このためベルリンは、職と自由を求める人達が東ドイツ側から西ドイツ側へ「亡命」する小窓となっていた。
1950年に187,000人、 1951年に165,000人、 1952年に182,000人、 1953年には331,000人が移住した。1961年までには東ドイツの人口の20%が西側に亡命していた。
東ドイツから西側へ移住する人間を減らす目的で57年、東ドイツにパスポート制度が導入された。旅行は許可制で、西側諸国への出国は認められていなかった。
皮肉なことに、これを機に東ドイツの住民は以前にも増して仕事と自由を求めて西側に移住し始めた。
若くて教養のある人たちー医者・弁護士・エンジニア・教師やスキルを持った人たちが西側に移住してしまい、慌てた東側ではその流れを止めるために1961年8月、東西ベルリン間の国境を完全に閉鎖、一晩のうちに東西の行き来が不可能になった。仕事で東西ベルリンを往復していた人、家族や友人に会いに行っていた人たちなど、いきなり元の住処に戻れなくなってしまった。
東ドイツ軍は初め、有刺鉄線やフェンスを西ベルリンの周囲にぐるりとめぐらせた。そこに壁を建設する間、兵隊に見張りをさせて、越境を試みる人に発砲した。62年、第1の壁と平行に、第2の壁が建設された。2つの壁の間にある建物は壊され、更地になった。逃亡者の足跡を見つけやすくするため砂利が敷かれていた。さらにはどの監視者が勤めを怠っていたか、将校にわかるようになっていた。ここは「デスストリップ」と呼ばれ、国境を越えようとする人は監視塔で見張る東ドイツ軍によって容赦なく射殺された。
89年11月に東西ドイツの国境が開かれるまで、壁は28年の間、国を分断していた。




ベルリン中央部にあるイーストサイドギャラリーには、世界各地のアーティスト達が描いた絵が100点ちょっと並んでいる。
ベルリンを東西に分裂していた壁が89年に崩壊した後、それまでは触ることも許されなかった壁に世界中のアーティスト達が、希望やよりよい将来を願って絵を描いたもの。
残念なことに、落書きがひどく、ペンキもはがれ、壁も崩れてきて、保存状態はよくない。
2013年、この地域を再開発するデベロパーによって壁の一部が取り壊された。
再開発の必要性はわかるけど、個人的にはこの壁は残しておいて欲しい。
目に見えなくなれば、いずれ過去に起こった悲劇の記憶も薄れていくと思うから。

ちなみに、ベルリンの街はグラフィティに溢れてる。アマチュアによるものやったり、名前の知れたアーティストによるものやったり。ベルリンにある数々のグラフィティを見て&自分でもグラフィティに挑戦するツアーがあってんけど、残念ながら満席で参加できず・・・。
by sabasuki
| 2014-09-01 22:21
| ベルリン旅行記2014